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人の温度では測れな

へらへらした、しょうもないことを書こうと思っていた。
が、裕さんから直球を投げられ、ガシっとグローブで受けようとしたら、指がグローブにちゃんとはまっていなくて、半分ぐらいボールがはみ出した。
もっとハエが止まるぐらい緩い球ならちゃんと受けられたかも??


さて。
万年へらへらのわたし。
鬱の気持ちを自分のことのようにしっかり感じてみようと頑張っても、やはり、調べたり、読んだりして知見として脳みそを経過しないと実感としては当人の温度では測れない。
想像することは出来るのだが、小さい頃から強く踏まれ続けた結果、ガラスのハートは砕け散ってどこかに埋まってしまっているようだ。
開き直りの精神からか。
突き詰めて考えていると、脳の思考キャパ耐用容量を超えて、眠くなる。
アタマ悪いっていうのか、神様からのプレゼントか。
負荷オーバーによる、自動的、苦悩からの解放。
しかもそれに加えて、老化認知症が人並みに、こんにちわ、と、やってきている。
来てほしくなく、追い返そうとするのだが、敵は上手(うわて)を行く。
3歩行って2歩下がり、また3歩行って3歩下がり、4歩下がり、、、時々4歩前進し、でもまた5歩後退し、、、。
見えない敵と遊んでいる、いや、闘っている。


自分の老化を手に取るように実感する度に、見聞きして知っている知識とピッタリ当てはまり、まるで答え合わせをして100点満点を取ったかのような気分になる。
模範回答を示す、老化の模範生。
つまり、通常、想定範囲内の老化である。
打ち勝つ気、ナシ。
努力する気、ナシ。
いらっしゃ〜い、と笑顔で迎える気、ナシ。
難しい顔で、渋々受け入れる。
突き返したところで、またやって来る。
いちいち騒ぎ立てるのが、めんどくさい。
というわけで、老化と「仲良く」ではなく、「嫌々」付き合っている。


熟年離婚しようとしている相手も老化進行中。
あらま、ちょっと待ってよ〜、
と、事態が落ち着くのを待つと、自分もどんどん老化のスピードを上げていく。


「居場所問題、どうなった?」
「ごめん、今、探し物の真っ最中」
それどころではなく、
あれ、ここに置いていたはずなのに見つからない、、、
と焦る。


渡っている桟橋の後ろから、橋が崩れ落ちていく感じか?
アタマ良い人、羨ましいなあ、、、。
わたしは、アタマが良い人に囲まれていないと不安である。


と、論点はズレにズレて。
日本人の同調圧力に弱いところとか、忖度(そんたく)とか、あまりホイホイと離婚しないところとか、
それには背景がある。歴史と文化。
そして、別の国には、別の国の歴史と文化がある。
違いを楽しむのは理想だが、そうも言っていられない現実がある。
ちなみに、わたしは、日本語しか出来ないので、外国暮らしは至って不安。
どこへ行くにも、その国の言葉を理解できないと、どうにもならない。
高齢になって、国を追われる人は悲惨だと感じる。
言語は要。
言語を理解しないと情報が遮断される。
なので、わたしは日本でしか暮らせない(定住出来ない)。
なので、郷に入っては郷に従え。
とは言え、他人のことはあまり気にならないが。

完全にご用意済みだろ

とりあえず、写真を直近撮った中から選んでブログに設定。


さて。
ふと、10年後のことを想像する。
1番下(5番目)孫が中学に上がった頃は、ばあちゃんは完全にご用意済みだろう。
さらにその10年後までの、ばあちゃんは、容易に想像できる。
母や姑、祖母や義理の祖母(姑の姑)を見ていると、歳の取り方や、家族との関わり方が等身大サンプルのようによくわかる會計軟件比較
65〜75歳、75〜85歳。
さらにこれに85〜95歳が加わる。
そしてまたまた95歳からのコースもある。(母が歴代実績サンプル、更新中)
とりあえずは、ここ10年でシュミレーションしてみよう。
時代背景の違いも大きく影響しているが。


以下は、わたしの身近な母たちの様子を元にしているので、データ平均値でもなんでもなく、全然違う人もいる(はず)。


65〜75歳。
新聞の記事では事件や事故で年齢と氏名が記されると、「老女」という表現になる。
本人には老人という自覚が全くない、前期高齢者群復古相機
孫もまだ成長期。
孫や子供たちと積極的に関わる。
子供や孫たちにとっては、元気なおばあちゃん。
外部イベントに一緒に参加したり、美味しいものを作ってくれたり、お小遣いをくれる。


75〜85歳。
少しずつ心身共に老人の自覚が深まる。
孫たちも離れ、それと共に子供たちとも距離が生まれる。
が、85歳は本格的老人の入り口。
転げ落ちると、速い。
病気になると、そのあたりで他界することもある。
病気が長引くこともある。


おばあちゃんたちは歳を取り、やがて亡くなるプロセスをわたしは家族として共にしてきた。
いくつかの実例を肌で感じてきた。
その中で最も身近だったのは、姑。
特に、孫との濃厚な関わり方が参考になった精靈針 效果
徐々に成長していく孫との距離感。
嬉々として孫たちに尽くし接していた姑も、段々体力的に疲れて来る。
孫たちを饗応する機会が激減し、内心、ほっとしていると思う。
体力の衰えと共に気力が衰えるが、ぜひ、こうしたい、という要望や理想はなかなかなくならない。
更に老いていく姑、その軌跡をなぞるかのように老いていくわたし。
重なる。
モーパッサンの「女の一生」じゃないけれど。(若い頃、読んだが、どんな内容だった??忘れている、、、、また読もう。ひとつ、楽しみが増えた)

た退屈の海に飲み込ま

なんて結局、当たり前のことを綴っている。
当たり前の幸せを当たり前と感じるのか、有難いと思うのかでは、随分違う。
当たり前のことは、退屈だと思うだろう英國租屋
退屈ぐらいが丁度良い。
退屈の有り難み、である。


ヒマって楽しい。
この感覚は、わかってもらえないだろう。
何もすることがない苦痛というものがある(らしい)。
何もすることがなくなると、何をしようかと考える楽しさがあると思うのだけど。
考えても実現できずに余計に絶望するなら、実現できることを考えたらよい裝修後清潔
が、誰にでもできるそんなことは、やり甲斐が感じられず、またまた退屈の海に飲み込まれるだろう。
人とは違う幸福観を持っている自分に、文句を言うしかない。
無理やり、自分の考え方を変えねばと思い込む必要はない。
時が流れると自然に整う。
まだ苦悩している場合は、その時がまだ訪れていないだけで、いずれ来る。
が、生きている限り、なんらかの苦悩はあるわけで、無くなるなんてことはない。
苦悩と仲良しになるだけだ。
調和。


調和されると、また退屈になる。
また難題に出会し、それの繰り返し戶外證婚場地
退屈するヒマがないと思うのだが。


人間は矛盾する生きものだ。
相田みつをさん風に、AIで何か書いてもらうか。
が、自分で書いたほうが、絶対に楽しい。